移住して5年。奥松阪としてのこれから

まずはこの5年間、松阪の中山間地域で過ごして思うこと。
2025年10月を迎えると、私たちが松阪市の飯高町に移住して5年を迎えます。
この間に色々なことにチャレンジすることで新しい会社の形を見つけて、更なる成長のフェーズに入ることができたと感じています。
東日本大震災やコロナ禍を通じて地方移住への関心が高まる中、時間が過ぎていくと都会中心の流れに再び戻り、地方への関心が薄れていく感覚もあります。とはいえ僕たちが独立した約14年前は地方に帰ると「都会でやっていけなかった人」というように見られていた感覚からは随分世の中も変化して来たなぁと感じています。
そもそも同じ日本の中で「都会 > 田舎」のように語られるのも、地方に住む人間としては違和感なのですが、今では地方の面白さや魅力もSNSなどを通じて伝えられるようになり、どうやって興味や関心を持ってもらうかが各地方の課題なのかもしれません。

地方で自分探しをする「地域おこし協力隊」について思うこと
地域おこし協力隊についての統計を調べてみると、どうやら2024年度には7,910人、1,176自治体で活動していたようです。総務省は2024年度末までに1万人とする目標を掲げているようで、おそらく今年もたくさんの方が地域おこし協力隊に着任したのかなと推測します。
僕自身も行政の方から誘われて2020年10月から2024年3月まで活動を行いました。僕自身が地域おこし協力隊になった理由は「自分が暮らす地域の方達と仲良くなるきっかけが欲しい」からでした。

地域おこし協力隊当時、地域活動の中で知り合った高校生たちが、奥松阪の店舗を片付ける際に手伝ってくれました。その子たちは今では大学生や社会人になっても店で働いてくれています。そうやって地域おこし協力隊の活動を通して人の輪が繋がって欲しいなぁと思っていたので、願えば叶うなぁと思っています。
奥松阪という場所を作ったことで始まった人の輪


2023年に奥松阪というお店を作ったことで、たくさんの人たちが集まってくるきっかけを作ることができました。その奥松阪の活動から派生して、僕が名古屋に住んでいる時に手伝っていたCOINNさんを招いた「こどもハッピーライブ」を松阪で開催することができました。当時は2回公演で確か230人ほどの方が集まって下さいました。みんなで一生懸命準備をして一つのことに向かう大切さをこの活動で学びました。
次の音楽イベントも開催しようと話していたのですが、みんながそれぞれ忙しく少し後回しになっているので、ここはなんとかやっていきたいと思っています。
楽しい時間をまたみんなで共有したいです。
協力隊が終わっても続く、松阪市内の高校生たちとの交流




昨年はお祭りでブルーベリーのタルトを作って販売したいと話していた松阪商業の子達の手伝いや、奥松阪の空き家片付けから始まり、奥松阪でバイトをしている飯南高校の生徒の探究活動の手伝い、今年は空き家を片付けて民泊をしたいという松阪商業の子達など、この奥松阪という場所を作ったからこそできた活動が本当にたくさんあります。
無報酬ですごいね。と言われたことがあるのですが、僕たちからしたら学生と関わることで逆に勇気をもらっているというか、若い子達の可能性にワクワクしています。
「地域おこしは生業にしない」という思いで現役時代から変わらず活動しているので、この取り組みは僕たちからすると全然違和感ありません。経済活動をきちんと行いながら社会活動を両立したいという思いで実践しているので、この取り組みは今後もずっと続けていきたい活動です。
友達の働く場所をつくりたいと思い「Stay奥松阪」を作った



奥松阪を作ってから1年半後には「Stay奥松阪」をスタート。地域で泊まりたいという潜在的なニーズがあるとは思いましたが、本当は僕たちが働く場所を増やしたかったというのが本音です。
実は私たちには家族同然に活動を共にしていた高校時代からの友人がいました。その友人が病に倒れた時に、彼女が病気を克服しても仕事に困らないように、僕たちの地域で働く場所を作ってあげたいという想いで宿泊施設を立ち上げる決心をしました。残念ながら病気がわかってから半年も経たず彼女は旅立ってしまいましたが、その彼女のために作ったこの宿泊施設は大切に使って、いろいろな方が地域に訪れるきっかけになれば、きっと彼女も喜んでくれるのかなと思っています。
地域に少しずつ馴染む奥松阪

地域に昔から残る神輿担ぎで、奥松阪の前に子供たちが止まってくれて本当に嬉しかった。移住してそんなに経っていないのに、少しでも気にかけてもらえることが本当に嬉しくて、なにか僕たちも地域でできることがあれば積極的に関わっていきたいなと思う出来事でした。
奥松阪を通じて、取材やイベント企画も行われた


僕たちからすると小さなお店ができたことくらいにしか思っていませんでしたが、いろいろな方のご協力もあり様々な媒体で取材してもらえたり、奥松阪を題材にイベントをしてもらったりと松阪の中山間地域にスポットが当たるかもというチャンスをたくさん頂けました。こういったイベントがきっかけで来年は街の中学生100人以上が飯高を中心にフィールドワークしてくれることも決まっています。
取材やイベントを通じて、「お店が一つできる」小さな一歩がとても大切なんだと実感しました。
ずっとやりたかった農業プロジェクトも今年から始動しました。



僕たちに田んぼづくりを教えてくれていた、元三重県の農業普及指導員の神田さんが今年から奥松阪に入社してくれたことをきっかけに、ずっと温めていた農業に関するプロジェクトも正式に始動しました。田んぼ作り体験やビール工場の立ち上げ準備と同時に行っている原材料の地産地消のためのテスト栽培。今年は大麦とホップのテスト栽培をこの飯高で行いました。
神田さんのおかげで色々なことが進んでいくので本当にありがたいです。やっぱり僕たちだけではこの取り組みは難しく専門分野のメンバーに恵まれたことがとてもラッキーだなぁと思っています。
そして今年に入って急にやり始めた「ドライブイン奥松阪」


飯高駅の隣にある「香肌横丁」でパン屋さんが閉店するとのことで「何かやってくれないか?」と打診を受けてチャレンジしてみようと始めたこの「ドライブイン奥松阪」。中山間地域にファーストフードがあると嬉しいなぁと思ったのと、せっかく僕たちがファーストフードをやるなら、アメリカの家族イレインさんたちとの想い出の料理を出したいと思ってインディアンタコスのお店をオープンすることにしました。
このお店を作る際に一番考えていたのは「地域で働きたいと思う人たちに働く場を提供したい」ということでした。なかなか街にあるようなお店がない中山間地域で働く場所の一つとして僕たちのお店を選択してもらえると嬉しいなぁと思っています。
奥松阪という名前に込めた、30年後の未来を見据えた想い

僕たちのお店の名前を「宿泊・食事・喫茶 奥松阪」に決めた際に、この名前は意外と言われたのですが、実はこれを決めるために色々な未来のことを想像して、たくさん時間をかけて悩みました。
奥松阪がある飯高町という場所は、松阪市の中山間地域に位置し、隣は飯南町があり、周辺は香肌峡県立自然公園にも指定されているので、香肌峡と呼ばれることも多い地区です。
元々この辺りの場所は松阪市ではなかったのですが、平成の大合併があった時期に松阪市に編入されたために、今でも松阪市の街の方に出かける人たちが「松阪行ってくるわ〜」と違和感なく話したりします。僕も結構「松阪行ってくる」と自然に話したあとに「ここも松阪だったわ」と思い返したりすることがよくあります。

この地域をなんとなく飯高・飯南と呼んだり、逆に飯南・飯高と呼んだり、あとは香肌峡と呼んだりするのですが、友達に話しても「そもそもどこか分からない」と、この数年間でたくさん言われました。
ここから人口減少、少子高齢化という厳しい局面を迎える中で、中山間地域と市街地が一つになれるコンセプトや、中山間地域の町同士が一つになれるコンセプトがないかなと考えて思いついたのがこの「奥松阪」という言葉でした。僕たちの住む街も松阪の一部だと市街地の方や他府県の方にも知ってほしいし、松阪の奥にも豊かな自然が溢れる素敵な場所があることを知ってほしいし、この「奥松阪」という言葉でみんなが繋がれるのではないか、という期待も込めました。
店名を決めた3年前、これから始める民宿や食堂はただの生業のための店舗ではなく、これからの未来を考えて実際に行動しながら未来に希望を持つことができるようになる為の概念だと考えていました。
その想いが少しずつ実を結び始めている実感もあり、これからどうなっていくのかワクワクします。
そしてこの秋に立ち上がる新しい拠点「奥松阪暮らし研究所」

なんとなくみんなが自由に集まってまちづくりのことを語り合ったり、インターンの大学生が泊まったり、みんなでBBQしたり、勉強会をしたり。そんな前向きなエネルギーを一つにまとめる場所が地域にあったらいいなぁと思い、この秋から宮前にある旧滝野時計店をリニューアルオープンさせます。
この場所は移住当時からとてもいい場所と建物だなぁと思っていたのですが、売りに出される際に僕たちが手を挙げて購入させてもらった場所です。ここで夜な夜なみんなでまちづくりについて語り合ったり出来るといいな。それを夢見てもう少し頑張って準備を行います。
会社名を「奥松阪」に変えた理由

約14年前の2011年の11月に高杉アトリエという会社を作りました。なぜその名前にしたかというと、この名前は僕の兄が設計事務所をやっていた時の名前で、兄は別の方と一緒に設計事務所を立ち上げるからと、この屋号を使わなくなった時に、折角だから残せるといいなと何となくつけた名前でした。
そこから何も考えず14年も経ち、気がついたらたくさんの人がこの会社に関わってもらえるようになり、働く人も増えて来て、自分の名前が入っているのもおかしいなと思うようになりました。
だんだんと僕の会社というよりも「みんなの会社」だという思いも年々強くなったこと。そしてこの地域で経済活動とまちづくりの両輪を回していくという覚悟の意味も込めて「奥松阪」という名前に変更しました。
新たな気持ちで会社をリスタートした2025年7月20日。
今までの常識に囚われることなく積極的にいろいろな挑戦をしていきたいと考えています。
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